葛西善蔵、小笠原豊樹
まったく縦横無尽というか支離滅裂に書物を漁っているけれども、最近はかなり忍耐強く書物と向き合えるようになった気がする。お気楽なもんだ。
埴谷雄高の場合、読めるけど、読み続けているうちになんかちがうなと思いながら読み終わる。谷川雁も然り。
読んでいるという運動それ自体はフィットしているようなのだけども、どこかで違う世界のことを考えてしまうようなずれが生じる。けれども雲が流れるごとくよどみなく文章が続いていって、はてな?が生じる箇所もほとんどない(一応ね)ので体は見事に句点まで運ばれる。それだけ。
たぶんこっちの頭がたりないのだと思うけれども、頭がいまいち勃起しない。
それにくらべて、二日で三冊読破してしまった西村賢太はフィットして、無頼と呼ぶには愚劣極まりない私小説の醍醐味をしゃぶりつくしてしまった。
同時代の私小説を読む面白さは、作中人物がもしかしたら身近に接すかもしれないというちょっとした「身の危険」をおぼえることにあるのか、と思ってしまう。
そんで二度繰返し読むことはないけれども、次の新作が待ち遠しくなって、作中人物はその後どうなって、藤沢清造の全集刊行はどこまで進んでるのか?と気になってしまう。まあ、三冊読んで、重複や繰り返しに当たる箇所があまりにも多すぎて、それはさっきも聞いたよ、みたいな「わかった、わかった、お前が能登の七尾に部屋を借りるために月2回行っていたソープランドを1回に減らしたんだろ」となだめたくなるが、それもまた筆にやどる全身全霊の思いとして受け止めてあーげる。(鬚男爵風)
その辺の繰返しを周到に避ける点については澁澤龍彦の文筆家としてのプロ意識みたいなのを私は尊重したい。
西村賢太のながれで葛西善蔵を読むと、これまた驚くほどフィットした。「子をつれて」。
いっぽうで葛西氏の時代の加能作次郎はいまいちフィットしない。嘉村磯多はどうだろうか?これから読んでみるわ。
まあ、こういうフィット感は翻訳でもあるようで、私はいまいち双葉十三郎の訳文にのることができない。
彼の「大いなる眠り」は読みづらい。リズムが悪い。神保町の富士鷹屋でほかの人の訳がないかとさがしまわったけど、どうやら創元推理の氏による訳しかないようだ。
いっぽうで、小笠原豊樹の訳は、どんな原作でも読みやすいし、不思議と古くならない。ロス・マクドナルドもブラッドベリもクリスティもボーモントもドストエフスキーもジャックプレヴェールも。
なんといっても小笠原豊樹がすごいのは英語もフランス語もロシア語もできるということだ。ナボコフの文学講義も訳せば、E・Sガードナーのミステリも訳すし、プレヴェールの詩も訳す。
しかも友人澁澤龍彦のサドの翻訳を出版社にすすめたのはこの小笠原豊樹だったという。
そんなわけで、ミステリ専門の古書店である富士鷹屋で、作者もよくわからないハヤカワポケットミステリを2冊、ただ訳者が小笠原豊樹という理由で購めた。
